■ 史跡など まちの風景 あれこれ その4 参考資料
 「新版八尾の史跡」 昭和62年八尾郷土文化研究会編
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21. 初夏 高安山を仰ぐ
八尾市民や河内の人々にとって、高安山は身近な自然と出会える格好の場所。十三越え、おと越え、暗がり越え、立石越えなど奈良へ歩いて入る道筋は今も残っているのでハイキングを楽しむ人は多い。そんな高安山で、30年前、「高安城を探る会」が幻の高安城といわれた高安城倉庫跡を発見した。
河内の人々にとって、高安山は単に仰ぎ見るだけでなく、自然や歴史に親しむ身近な存在だと思う。
22. 恩智神社からの夕焼け
恩智地区の東方恩智山の中腹にある神社で、河内二の宮といわれている。古くは今のお旅所である天王の森にあったが、恩智左近が恩智城を築いた時、社殿が城山より下にあることをはばかって、現在の地に移したと伝える。社殿すぐ下に恩智神社の神宮寺であった感応院がある。
23. 恩智石器時代遺跡碑(八尾市恩智中町)
恩智神社のお旅所天王の森に昭和18年に大阪府が建てた碑。この地を中心として、東高野街道から恩智川に至る付近一帯は、地下およそ3メートルのところから、縄文時代から弥生時代にかけての石器や土器類が出土するところである。恩智集落は、高安山麓の中でも最も広い扇状地の上にあり、地理的に集落としての好条件を備えた所であった。
24. 恩地城址(八尾市恩智中町)
東高野街道から東におよそ100メートル登ったところにある。恩地城は中世恩智の豪族恩智左近満一が築いた城と伝えられ、自然の高地を利用した城郭で、後方の高安連峰との間に堀を設けて要害とし、前方はるかに大阪平野を一望の下に見晴らしている。正平三年(1348)四条畷の戦いに楠木正行が戦死し、この恩地城も北朝方のために陥れられたという。
25. 教興寺(八尾市教興寺)
一名高安寺とのいい、俗には藪寺の名で知られている。真言律宗西大寺末で、古く秦寺といわれ、聖徳太子が物部守屋を打ち滅ぼされた時、秦河勝に命じて建立させたものと伝える。境内の南方に寺池、大門池と称する池が今もあって、その昔はいわゆる臨池式伽藍形式をもった大寺院であった。大通寺、梅岩寺、意満寺などはその塔頭であった。鎌倉時代、西大寺の叡尊が荒廃したこの寺を復興した。大通寺には、お初徳兵衛の墓といわれるものがあり、曽根崎心中の話が伝わる。
26. 信貴山案内の道標(八尾市教興寺)
旧高野街道の教興寺四つ辻は、高安信貴山道の起点であり、この道標は宝永五年(1708)のもので八尾市内の建設年次を記した道標としては一番古いものである。この道標に接した家屋は昔旅宿をしておられ、今も同家の庭に信貴山宿坊千手院と記した台石をもつ宝筐印塔(ほうきょういんとう)が建っている。
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